『巷説百物語』(京極夏彦)を読み終える

ここでは的を絞った記事ではなくてただ日々の暮らしを綴っていきたかったのだけれど、今日からはもっと幅を広げて、最近読んだ本のこととか大好きな音楽のこととかも書いていこうと思う。まぁ〜、気分屋の俺のことだからいつまで続くかわからないけど、、。^^;もう一つの方は完全な英語ブログにしようと思っている。俺の英語の練習場って感じで続けていきたいと思う。実は昨夜日本語で記事を書いてその英語ブログに載せてみたらものすごいヘンな感じになってしまったのだ。もっとホームページ作成なんかに詳しい人達は、ブログのデザインを変えたり文字の大きさを変えたりして、ヘンだなと思った時は自分の好きなように編集できるのだろうけれど、俺はまったくできなくて、他人様頼りだからねぇ〜。

京極夏彦の作品をずっと読んできたが、今回は『巷説百物語』を読んだ。これはYYが買ってきたものだ。七つくらいの物語が入っていて、どれも面白かった。もうまったくといっていいほど時代小説は読まないけれど、この小説の中では、昔の言葉遣いが出てきて、妙に新鮮だった。たとえば『奴(やつがれ)』なんて言う言葉、、。俺はヤツというと相手のことを言うのかと思っていたら、どうやらこれは『私は、、』と、自分のことを言っているようだった。まぁ〜、読解能力に疑問がある俺のことだから、ヘンなのはブログデザインだけではなくて俺の頭だったりするから、この解釈もあやしいが、、。^^;

おどろおどろしいものは怖いけど覗いてみたい衝動は抑えがたく、ついつい読んでしまうが、京極夏彦さんというのは、人間の心がもっている微妙な『狭間』をくすぐるのが上手で、読み終わった後はいつも不思議な感覚に襲われる。俺達は認識しているいないに関わらず、進歩的と言われる人達でさえ古い因習に縛られて生きているのだ。それが社会の道徳を守る上で大きな役目を果たしてきたんだろうけれど、でもあまりにそれにこだわると、実際のことが見えなくなってしまったりするのだろう。この本の中でも最後の話の中で『人間は死んだら唯のモノに過ぎず、ましてや心なんてものはない。死人の心は生きている者の側にある。』と言うようなセリフを主人公に言わせているが、なんとなく判った気がした。

次はパトリシア・コーンウェルの『神の手』を読む予定だ。