いじめ・暴力対策委員会

天気予報では、今日は『弱雨』ということになっていたが、今は、ピカピカの晴れというわけではないけれど一応晴れている。こんな調子で一日雨は降らないんじゃないかと思って洗濯機を回している。今日は特に予定はないので残っている雑用をやっつけようと思う。夜は会議が入っている。

娘が通う中学校では、『いじめ・暴力対策委員会』というのが保護者、教職員で組織されている。目的はいじめや暴力を事前に防ぎ、それでも発生した時はともに解決に当たるというもの。年に数回会議があって、生徒の様子や地域での関連事件などの報告がある。教師と生徒との間のトラブルもあって、目的が完全に達成されているとは言えない状態で、委員会としても、、特に保護者の立場としては、、とても微妙で難しい局面に立たされたりする。

よく『教育』について語られる時、地域の力とか地域住民と一体となって、、というような表現が使われるが、俺は時々その意味が判らなくなったりする。それはきっと俺の中にある『教師は絶対的に信用出来ない』という気持ちからだろうと思っている。教師が『聖職』ではなく『いち労働者である』と自ら宣言した時から、あまり信用しなくなってしまった。自分達の生活向上のための賃上げ闘争で使われた言葉だが、その後の行動をみていると、『いいとこ取り』をしているような気がしてきたのだった。

髪の毛を茶髪にしてイヤリングをつけ、ブランド物の服を着て高級車で学校に出勤。携帯電話を校内で堂々と使い、嫌な学校清掃や物品の修理は保護者会に押し付けてくる。そしてその日の『気分』でどなり散らす彼らの態度を長い間みていると、生徒が彼らに似てくるのは当たり前だと思ったりする。小学校では六年間もそれを見続けるのだ。彼らの六年は俺達の二十年くらいの価値があるその時期に、だ。

そんな彼らとそっくりな子供達が彼らと同じことをして教師の機嫌を損ねたら、今度は家庭が悪いとか社会が悪いとかいって責任転嫁をし自ら反省することは滅多にない。そして今は『地域の力で、、』となった。普通の社会人から見れば解決するのは簡単で、教師の総入れ替えをすればいいのだと思ったりする。^^;『公務員として生活の安定が保障される』という理由で教職につく者が多過ぎたのだろうけれど、大学または大学院までご卒業された人達なんだから、少なくとも給料分の仕事はしなければならないとか、仕事なんだから他人から評価を受けるのは当然だとかっていう感覚くらいは持ってほしいと思う。こんなこといっちゃ、本当に一生懸命仕事をされる教師達に申し訳ないけれど、例えば民間会社では、一人の職員の不祥事は会社全体を不名誉な立場に追いやったということで、厳しい処分、、解雇だったりするけれど、彼らにはどうもそういうことはないようで、逆に子供達にあたったりするからとっても性質が悪い。^^;

そんな根深い不信感が俺の中にあって、どうも学校の会議には出席したくないというのが本音。^^;自分達の仕事の一部を押し付けられる、、という感覚以上の『嫌』ぁ〜な気分になる。セールスマンが飛び込んだお宅すべてで契約が取れるなんて、そんな気持ちのいい仕事って、、どこにある?どんな仕事にも困難はつきものだと思うんだけれど、、、。もっと教員室で自らの服装、生活態度について話合い、『目に見える』形で、、少なくとも学校内だけでいいから、、改善すれば、ひょっとしたら生徒達も変わるのではないかとずっと思っている。『労働者が生活向上のために戦う』のは大いに結構、けれど、『負の遺産』にも気がついて、その責任を負わなきゃ教師とは言えないだろうに、、。若い教師達はそれに気が付き始めているようで俺は若い教師達が大好きなんだよね。だから俺の世代の教師達は退職したら、さっさと現場から、、、『教育機関』の周辺から、、、図書館から、、教育委員会から、、なんたら教育諮問機関から、、とっとと出ていっておくれと願っている。^^;